真実を求める者に捧ぐ

アイルトン・セナを倒すべくF1へ…セナが亡くなり…芸能界や中国留学…海外に会社設立、倒産…マラソンに本気で…現在は…山と海が近い地にて仕事をしながら、トレイルランやシュノーケリングをして遊んでいます(^^)

セナ命日、自分の人生が変わった日

1994年5月1日

 

F1パイロットのアイルトン・セナが事故死した日。

 

セナは憧れであり、人生の目標でした。

 

F1を観るようになったのは1990年の日本GP。テレビで観たスタート直後のセナとプロスト接触リタイヤ…日本人には嬉しい鈴木亜久里の表彰台。

 

素晴らしいレースでした。

 

それからは必ずF1を観るようになった。

 

91年ドイツGPで日本のF1ブームを牽引していた中嶋悟が引退発表。

この時に私はF1パイロットになりたいと思った。

 

中嶋さんは日本人初のF1パイロット。重圧もあったろうし、デビューしたのが34歳の時。近代F1では考えられない遅咲きのデビュー。いや、当時でさえ遅かった。

 

まだ日本人がF1に辿り着く為の道がなかったのだから仕方がないといえる。

 

日本で5?6回?だったかな…全日本F2のチャンピオンになった中嶋さん。

でも、なかなかF1に行けなかった。

当時も参戦していたホンダのサポートでなんとかデビューできたという感じだ。

 

なかなか結果が出ずレース関係者から「ホンダの連れ子」なんて言われた時も…

 

でも、雨のレースには強く89年オーストラリアGPでは4位入賞。ファステストラップを記録して、レースの主役だった。

 

イギリスの辛口コメンテーターであり、元F1チャンピオンのジェームス・ハントも「F1全16戦が雨ならナカジマはチャンピオン候補になる!」と太鼓判を押した。

 

その中嶋悟が引退…

 

自分には悔しくて仕方なかった。

 

「よし!F1へ行ってやる!中嶋さんの無念を…中嶋さんの代わりに結果を出してやる!」

 

と妙な使命感に燃えていた。

 

翌年92年に鈴鹿へ日本GPを観に行った。

この時は高校2年生で、ちょうど中間テスト期間。

 

F1を観に行くから土曜日の中間テストは休むと両親に話した。

母親は反対したが、父親は「もう2度とないかもしれない。何でも1度はやってみろ。金は出してやる」と旅費やチケット代まで出してくれた。

 

お年玉やら貯めていたのでギリギリ自費で行けるか!?と思っていた自分には渡りに船…いや、豪華客船のようだった。

 

土曜日のテストをサボって金曜の深夜の鈍行列車で6時間かけて名古屋入り…鈴鹿へ向かった。

 

土曜日は朝から大雨でね。

でも、午前のフリー走行で最初に出てきたのがセナのマクラーレン。あの時聞いたホンダV12エンジンの音は一生忘れない。

 

F1への思いは強くなり、93年には高校中退してF1行きたいと親に話したが両親は大反対…無理な理由をいくつも並べるが、当時や現在の自分が考えても理不尽な言いがかりだった。

 

未成年だから

 

お金はどうする?

 

お前は目が悪い。

 

高校くらいは出ろ

 

 

その時は引き下がり、高校卒業まで待つ事になった。

 

「高校卒業したら後は好きにしたらいい」

 

この言葉を信じて…

 

だが、卒業しても今度は

「まだ未成年だから…」

と言われた。

 

 

 

 

この時から今後は自分の人生は自分で決めなければならないと誓った。 

 

もう他の誰にも指図は受けない。

 

やりたいようにやるのだ!

…とね。

 

 

……今思えば高校生のあの時に家出してでもF1目指すべきだった。

 

その当時の行動力と度胸のなさが情けない。

 

話は戻り

 

91年はセナがチャンピオン。開幕4連勝という記録もあり、地元ブラジルでの終盤には6速ギアのみで走るというスーパードライビング!

 

まさにセナここにあり!

 

 

けれども、私の中ではセナは悪役だった。

日本ではフジテレビを始めとする日本人はセナが主役で敵役はプロストという構図。

 

 

 

 

だが、私は最強の者が好きになれない。

 

 

 

 

家康に刃向かっていく石田三成

 

負け戦とわかって参戦する大谷吉継

 

真田幸村も豊臣方につく

 

時代の流れに逆らう新選組

 

圧倒的国力差がありながら、アメリカと戦った日本

 

 

強い者に闘いを挑む者が好きなのだ。

 

 

セナの絶対的速さに対する憧れがあったからこそ、91年まではプロストやマンセルを応援していた。

 

だが、92年

セナの乗るマクラーレンは最強のマシンではなくなった。

 

だからこそ、モナコで勝ったセナを誇りに思った。

 

戦闘力の劣るマシンで闘うセナが好きだった。

 

 

 

 

93年には悶々としていた。

 

秋になり日本GPの季節がやってくる。

 

前年とは違い、親には相談しなかった。当然だ。

チケット代もなかったし、電車賃もなかった。

 

でも、鈴鹿にだけは行きたかった。

 

そうだ!自転車で行こう!

 

…我ながらすごい発想だよホント。

 

埼玉県から三重県鈴鹿までは何百キロだよ!

 

社会の地図帳を見て…大きな日本列島があるページで距離を定規で測って距離を算出した。

およそ450キロ

直線距離かい!

 

時速20キロなら23時間でいける。

寝ないで行けば大丈夫だ!

と訳の分からない自信があった。

 

でも、そんな自分でもどこかで噂には聞いていた。

 

自転車日本一周する人が苦戦する箱根越え…ここを越えるか避けるかで悩んだ。

 

よし!

 

下見に行こう!

 

そう思って箱根往復間250キロの旅へ

 

平日学校サボって…部屋に「夜には戻る」と置き手紙して。

 

朝4時出発してひたすら国道沿いに走った。

それまでは80キロを2度、50キロを何度か走ったことがあるくらい。

めちゃくちゃな計画だった。

 

藤沢の先で疲れて引き返した(笑)

往復で180キロ

 

マウンテンバイクのハンドルを握り続けた後遺症か1週間手が痺れて鉛筆持つのも辛かったなぁ…

 

93年鈴鹿入り断念

 

 

だが、高校卒業したら…と我慢した。

 

その時には独自のトレーニングをしていた。

今まで中学の部活でバレーボールやっていたくらい。

知識も経験もない状態で始めたが、その後のマラソンレーニングにも繋がる自分のスポーツの歴史の始まりだった。

 

レースやるには首の筋肉だ!

 

と思い、中学の部活行くとき使っていたヘルメットを改造して2キロの鉄アレイを載せた。それをかぶって自転車に乗ってコーナーで首傾けたりね(^^)

 

そんなトレーニングを続けながら高校卒業後の計画を立てた。

 

だが、フォーミュラカーのレースは他のカテゴリーより資金がかかる。

 

入門フォーミュラFJは年間1000万近くかかる。

上のF3では5000万

日本の最高峰全日本F3000は2億はかかる。

 

当時でもとても個人で出せる金額ではない。

 

FJチャンピオンになった人達でも多額の借金を負ってなんとかF3000まで行くも挫折感した人を何人か知っていた。

 

 

ならば、日本がダメなら海外だ!

 

プロスト、アレジ、片山右京が首席で卒業したフランスのウィンフィールド・レーシングスクールへ行くのだ!

 

3週間で120万円かかる。

だが、好成績上げれば翌年からルノーやエルフの支援でレースに出れる。

 

これしかない!

 

と思った。

 

当時、レーシングスクールはイギリスの名門ジムラッセルなどもあったが直感で決めた。

当時の憧れはプロストだったから。

 

佐藤琢磨はホンダのレーシングスクール第1期生の首席卒業者。

 

だが、私が10代の頃は日本にF1目指せるスクールはなかった。

 

 

 

 

 

 

93年は92年と同様にセナはライバルより劣るマシンに乗っていた。

 

だが、腕でカバーしていたレースがたくさんあった。

 

93年のこの時にはすっかりセナファンだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

93年シーズンが終わり、総集編のビデオを観た。

今は亡きモータージャーナリスト今宮純さんと最近のF1解説を務める川井一仁さんが解説していた。

 

この時、今宮さんは

 

「セナは大事なレースを5つ勝った。来年はどうなるのだろう…あれだけ運がいいと…いや、ちょっと違うな表現が…あれだけ運を掴んじゃうと…」

とコメントしていた。

 

これが、とても心に引っかかっていた。

幸運の後は不運が訪れるのは多くの人が認めていること。

 

来年のセナがチャンピオンになれないということか?

 

いや、そんなはずはない。

 

この時は94年シーズンの体制が決まっていて、セナはウィリアムズに移籍する。この2年間に最強マシンを作っているチーム。そこへセナが乗る。

 

あるモータージャーナリストはセナが16戦12勝するのではと予想した。

 

私もセナのチャンピオンは確実で、そこにシューマッハフェラーリがどこまで抵抗できるのか?

という簡単な予想が立てられていた。

 

 

 

 

 

 

しかし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1994年はセナは開幕から結果が出なかった。

開幕のブラジルでは決勝で2位走行中にスピンをしてリタイヤ。

これは後々の7度のチャンピオンを獲るシューマッハの速さによるプレッシャーだ。

 

セナの乗るウイリアムズのマシンは前年までの圧倒的な強さに欠け、ハンドリングが不安定なマシン。

かたやベネトンに乗るシューマッハは新しいコンセプトのフォードV8エンジンを積んでいた。究極のV8エンジンと宣伝され、ハンドリングにも優れたマシンだった。

 

ブラジルでは明らかにシューマッハの方が速かった。

 

次戦ではセナはスタートを出遅れシューマッハに先行され1コーナーでハッキネンに追突されあっけなくリタイヤ。

 

だが、不安だったのは2戦連続リタイヤ、ノーポイントだからではなかった。

 

予選の時からマシンの挙動がおかしく、セナのコントロールが苦戦しているのがよくわかった。

 

セナも

「マシンの内部に問題がある。原因がつかめない。これは警告のようなものだと思う。なぜなら僕もチームメイトも同じところでスピンしたからね」

 

…今からすると予言ともいえる言葉だ。

 

そして、第3戦サンマリノ

 

金曜日には同じブラジリアンの後輩バリチェロが大クラッシュ。

 

土曜日の予選でオーストリアのラッツェンバーガーが高速コーナーでコースアウト。

320キロ出るコーナーでクラッシュした。

 

ラッツェンは死んだ…車がバラバラだった。

 

82年以降はF1は死亡事故がなかったのに…

 

 

 

 

そして…日曜の決勝

 

スタート直後にスタートできなかったレートにラミーが追突。

ドライバーは無事だったがタイヤが観客席に飛び怪我人が出た。

 

あの時赤旗を出してレースを中断するべきだった。

 

いや、土曜日のラッツェンの事故でレースを中止にするべきだった。

 

だが、決勝のレースではスタート事故の処理が終わるまでセーフティカーが先導することになった。

 

現在のF1ではありえない判断だ。

 

レース再開後はまたもやセナとシューマッハのマッチレース。3位以下を大きく引き離していた。

 

 

 

 

そして

 

 

 

 

 

 

 

 

シューマッハの車載カメラが映る。

 

前に行くのはトップをいくセナ

 

第1コーナーのタンブレロに進入していく…

左曲りの大きなコーナーだ。

 

シューマッハは左にマシンを寄せる…

 

だが、セナは反対の右へ曲がっていた(左曲りなので正確には直進して右に曲がるように見えた)

 

https://youtu.be/0F44XhjWXbg

 

…ん?

 

なんだ?

 

右行かなかったか?

 

本当に2秒もなかった。

 

シューマッハの車載から切り替わり、セナの車がバラバラになった映像が映る。

 

うわーー!

 

89年のベルガーのクラッシュに似ていた。

 

火が出るのか?

 

いや、火は出なさそうだ。

 

いつもならすぐに車を降りるセナが出てこない。

だが、ヘルメットが少し動いた。

 

あー、まぁ大丈夫そうだな。

 

それにしても3連続リタイヤか…シューマッハは3連勝しそうだしなぁ。

 

と呑気なことを考えていた。

 

だが、こう考えていたのは自分だけではない。

 

実況していたフジテレビ三宅アナウンサーも、後にこう語っている。

 

「セナがクラッシュした時、私は不思議ととても冷静に実況していました。

 

セナなら大丈夫だ。これまで何度かクラッシュしても大した怪我がなかったセナは大丈夫だ。

 

…前日にラッツェンバーガーが亡くなる事故をおこしていたのに…です」

 

 

全く私も同じ気持ちだった。

 

 

 

多くのF1ファンもそうだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セナなら大丈夫だと。

 

 

 

 

 

 

 

 

レースは中断されコース脇ではセナの救命処置が行われている。

 

長い…とにかく長く感じた。

 

その後にセナはヘリコプターで搬送された。

 

セナが横たわっていた跡には赤い血の跡…

 

異常事態なのがこの時になってわかった。

 

ラッツェンのことを思い出し…まさかな…セナなら…だが…まさか…

 

しばらくしてレース再開の映像が流れシューマッハの独走が映る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして…無機質な発信音が流れ字幕が出る

 

 

 

 

 

 

 

 

セナ死亡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだ?

 

見間違…見間違いじゃない。

 

そんなバカな!

 

セナだぞ!

 

「嘘だーーーー!」

 

真夜中に叫んだ。

 

その後は無言で呆然としていた。

 

涙がボロボロロ、ボロボロロロとこぼれた。

あれだけ泣いたのは初めてだった。

 

映像がすぐに切り替わり、レース後であろう、三宅さん今宮さん川井さんが映し出された。

川井さんはうなだれ。

今宮さんは目を涙いっぱいにため。

三宅さんもまたセナの悲報を伝えようと泣くのを必死で堪えていた。

 

あの時のことを思い出すと…今も涙が出ている。

 

 

 

あの日から私の中で大きなものを失った。

 

首を鍛えるトレーニングは何ヶ月もやっていたのにあのレース以降はやる気がなくなった。

 

同年の日本GPをテレビで観ていても虚しかった。

 

あの時に思った。

 

自分が人生を費やしてF1を目指していたのはセナと闘いたかったのだと。

 

 

 

それから何年も目標を失い、抜け殻だった。

 

新しい事に興味を持つように心がけて、再び夢を見られるようになったのが4年後。

 

そして…多くの挫折があり現在に至る。

 

シューマッハやハミルトンの速さは認めるも、史上最速のドライバーはセナだと思う。

 

記録からいっても、乗っていたマシンを考慮してもやはりセナになる。

 

 

憧れ…目標…

 

 

セナには大切な多くのことを習った。

 

セナ「理想を語ることは簡単だが、自ら実践するのはとても難しいことだ。

しかし、だからこそ少なくとも自分自身に対しては誠実に、そして自分の描いた夢に向かって精一杯生きていくことが何より大切だ」

 

 

 

セナを忘れない。

 

 

 

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